夜中1時から一時間ほどの番組放送だったのだけど、あという間に時間が過ぎてしまった。
もっと色んなお話を聞きたいくらいだった。
放送が終わってから何だか気分が高揚してしまって余計寝付けなくなってしまったのだけどね。(^^ゞ
寺山修司は私が初めて出会った作家だった。
出会ったのは24歳の頃だから今から・・・年前になるかなぁ~アハハ。
寺山修司の作品と出会ったいきさつというかきっかけは、丸の内の会社に勤務していたとき、帰りにたまたま立ち寄った八重洲ブックセンターで、これまたたまたま手に取った短歌の専門雑誌に掲載されていた寺山修司の作品を読んだからだった。
子供のころ、近所の中学校の先生のお宅におじゃますると部屋の本棚にびっしり本が並んでいて、その中に一際光り輝く本があって、それが寺山修司の本だった。
子供の頃、何でだか他の本には目もくれず、先生に断って寺山修司の本を読み漁った。
でも内容なんてちっとも理解できないんだけど、とにかく本に踊る寺山修司の世界に引き込まれていった。
そんな子供時代を過ごした私だったから、八重洲の本屋で寺山修司の作品を見つけたとき、衝撃というよりも懐かしさすら覚えたのだった。
寺山修司の短歌、若かりし頃に書かれた作品だったけど、その当時私はすごく闊達さを感じたものだった。
それ以来寺山修司に憧れを持ち、いつしか短歌の世界に引き込まれていった。
寺山修司は子供の頃に父親を亡くし、母親の手で育てられる事となった。
でも戦後間もない日本で、それも青森という土地柄、父親がいない、母親の手で育てられるという事は決して平たんではなかったはず。
母親も米軍の基地で働き家にはほとんど帰らず、修司は親戚の家をあちこち転々としていたそうだ。
田舎暮らしの閉塞感、父親がおらず母親も働きに出てしまい家に帰ってこない、そんな幼少時代があったからこそあの作品の数々が生まれたに違いない。
私も子供時代に父親を亡くし、それから母親の手一つで育てられてきた。
決して裕福とはいえない暮らしだった。
母も人一倍苦労して、世間の目から逃れるように住んでいた土地を後にした。
そんな時代があったから、きっと引き込まれるべくして寺山修司の世界へと足を踏み入れる事になったのかもしれない。
短歌の制作を始めてからは地元の文芸誌に短歌の作品を投稿したり、コンテストで入賞したり。
角川の「短歌」という総合誌の短歌コンテストに投稿したところ、塚本邦雄先生から一首だけど選をいただいた事があって、そのときは賞に入賞する事以上に嬉しい思いをしたのを思い出す。
それからひょんなきっかけで俳句の世界に入っていった。
今は亡き藤田湘子主宰の「鷹俳句会」に入会して、そこで小澤實先生と出会う。
小澤先生が新しく結社を興されるときに私も賛同させていただき、小澤先生の俳句会にご一緒させていただいた。
私が俳句の世界に引き込まれる事となった根底には、やはり寺山修司がいた。
俳句会の仲間と先生を囲んで、毎月の句会の後の飲み会で文芸談義したものだった。
私は今は俳句を作る事はお休みしているのだけど、たまたま付けたラジオから九条映子さんの声が聞こえ寺山修司の事についてお話されているのを聞いて、自分が若かった頃に短歌や俳句を作っていたときの事を鮮やかなまでに思い出したのだった。
もう一度短歌や俳句、作ってみようかな。
いや、心の底では作品を作ってみたいという衝動に駆られているのかもしれない。